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権現堂周辺コース「宿場あるき」歩いてきました/埼玉県幸手市

幸手市内には、現在でも蔵や古民家のある街並みがあり、歴史を感じながらまちなかを散策することができます。今回はたくさんある「宿場あるき」のコースの中から、「権現堂周辺コース」を歩いてきました。
このコースでは、権現堂堤とその周辺の名所や見どころを幸手宿観光ガイドの会のみなさんの説明を聞きながら楽しむことができます。

6月24日(土)晴天 「幸手あじさいまつり」最後の週末で、キッチンカーやあじさいマルシェは大賑わい。中央ひろばでは、幸手桜高校の演劇部員が「ちんどんパフォーマンス」を披露して多くの人を魅了していました。
この日の参加者は4人。まずは、権現堂の伝説「巡礼の碑」「巡礼供養塔」から出発です。

巡礼の碑

権現堂の伝説「巡礼親子」

享和2年(1802年)の6月25日に大雨が降り、翌日には大嵐となり、その後も大風雨が続きました。権現堂川の水かさは増え続け、幸手領の人たちは権現堂堤の水防活動を必死に行います。(~中略~)権現堂村の民家61軒を押し流すなど、大災害を引き起こしました。(参考資料:幸手市郷土資料館開設記念特別展示 権現堂堤の歴史p.5)
この大災害の際に生まれたとされる伝説が「巡礼親子(母娘)」です。

肝心な部分が違うのは伝説あるあるなのか!?

さて、この伝説、幸手市周辺の各地で語り継がれているもので、地域によってその伝わり方が少しずつ異なります。
・順礼親子が人々のために自ら人柱になった説
・水害で殺気立った人々が、巡礼親子の子どもを無理やり川に投げ入れて人   
 柱にしたので、母が後を追って飛び込んだ説
・母が人柱になるために飛び込んだので、娘も後を追った説
巡礼親子の意志だったのか否か、一番肝心な部分は各地様々です。

行幸堤之碑 題字は岩倉具視の書

権現堂堤は、江戸を守るために築かれたものではなかった!?

権現堂堤は江戸を守った「御府内御囲堤」ともよばれ、江戸幕府による手厚い管理がなされていました。しかし、築かれたのは江戸幕府誕生より前の「天正4年」時は戦国時代まで遡ります。
では、この広大な「堤をつくる」という現代技術をもってしても難儀な大事業は、誰の指示でおこなわれ、何のために築かれたのか、何を守っていたのか・・・。ちょっと面白いはなしになってきました。
歴史に詳しいガイドさんと、戦国時代に詳しい参加者が、少年のような眼差しで大いに盛り上がります。これは文献を集めてまとめたら面白い仮説が誕生しそうな予感。

土木学会選奨土木遺産

東京駅のレンガと同じレンガです

堤をくだり、権現堂川用水へ。権現堂川用水の取水水門、土木学会選奨土木遺産があります。完成当時は、現在とは逆方向に水が流れていたそうです。
1905年に現在の深谷製煉瓦造りに改築されました。
「上敷免製」の刻印があり、この煉瓦が日本煉瓦製造の深谷工場でつくられたものということが分かるようです。日本煉瓦製造といえば、深谷市の実業家渋沢栄一が作った日本で最初の機械式煉瓦工場です。
東京駅、赤坂迎賓館、帝国ホテルなどでも同じレンガが使われています。

日本煉瓦製造のレンガ

じっくり権現堂の歴史を楽しめるコース

歴史談義に花を咲かせながら、あじさいまつりの見物客で大入りの堤をゆっくりと散策し、16か所の名所を巡る今回の権現堂周辺コース。
お昼に近づくにつれて急上昇する気温により、堤の木陰へ避難し、給水・トイレタイムをこまめに入れて、少しずつ進みます。
このコースは、公園内の移動が中心で道路を歩く時間がとても少ないので、安全で話をじっくり聞きいたり、石碑をじっくり見たりして、ゆっくり回ることができます。
たくさんの神社仏閣を巡ることのできる宿場コースとは、また違った魅力があり、伝統的な文化・風習・歴史などの情報量がとにかく多いので、大満足でした。 では、また。

ガイドの会の皆さん ありがとうございました。

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