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舟運で栄えたまち幸手/埼玉県幸手市

現在の幸手市には、幸手工業団地、幸手ひばりヶ丘工業団地があるほか、圏央道幸手IC(2015年3月開通)に隣接する幸手中央地区産業団地があり、多方面へのアクセスの良さから工業や物流の拠点となっています。
しかし、古くは宿場町であった幸手は街道での陸運、河川での舟運と、鉄道がなかった時代にも物流の一大拠点となっていました。
今回は、そんな川で栄えた時代の幸手のおはなしです。

本日の教科書

幸手の川は、繁栄・富・文化・人の交流の舞台だった

権現堂川はたびたび氾濫をおこし、水害から守るために天正4年に権現堂堤が築かれました。水害の様子は絵馬や悲しい伝説となって語り継がれています。
しかし、この川は「大きな水害をもたらした場所」というだけでなく、豊かな恵みや舟運(しゅううん)による華やかな経済繁栄・富と文化・人々の交流の場であり、用水は農業生産の根幹でした。
幸手の人々は、川とともに豊かな生活や文化を育んでいたのではないでしょうか。

関宿向河岸の碑

権現堂川に権現堂河岸、江戸川に関宿向河岸・向下河岸あり

川に高瀬舟が行き交った頃、権現堂川には権現堂河岸、江戸川に関宿向河岸・向下河岸がありました。
「河岸」とは江戸時代の物流を担う舟運の拠点、流通ターミナルのことです。
市の北西部に位置する西関宿は、江戸時代は関宿向河岸・関宿向下河岸という繁華な町場でした。
この河岸は、年貢米を領主のもとへと運ぶために整備されましたが、経済が進展すると幸手宿や関宿城下の商人荷物も扱うようになりました。
物流の拠点である河岸場には多くの人と物が集まり、賑わっていました。

関宿関所あとの標識
関宿関所跡の碑

関宿関所跡の碑

市内に、舟関所があった!

この碑には下記の文字が記されています。
寛文5年(1665年)徳川幕府は、利根川水系を運行する船舶を取り締まり、江戸防衛の一翼を担わせるため、この地に関所を開設し、関宿藩をその任にあてた。
この水系を利用して運搬された物資は、大部分この関宿関所を経て、江戸と交流した。
一隻の高瀬舟で、米4百俵前後(約24トン)が運搬可能であったことから思えば、船舶の運送力がいかに絶大であったかを知ることができよう。
このため、運行は繁く、臨検を待つ船の帆柱は林立して壮観を極めたという。
その後数度に及ぶ河川改修工事のため、関所跡は現在地より東北約4百メートルの地点に埋没し、昔日の面影を偲のぶことさえできない。
よって、ここに碑一基を建立して往年の史実をきするものである。
喜多村三郎 撰文 杉山岩雄 謹書
昭和53年3月幸手町教育委員会

西関宿 保食神社
舟頭鈴木辰太郎が奉納した「碇」

西関宿 保食(うけもち)神社

五穀食物家畜等司る神、保食神(うけもちのかみ)

神社の境内には、地元の舟頭鈴木辰太郎によって昭和14年6月に奉納された「碇」があります。
水辺に暮らす人々や舟頭たちは、水とのかかわりの中で水神を信仰するようになりました。
水神として、祀られている神は、水神社のほか、水天宮、弁財天、九頭龍神、あるいは金毘羅様や大杉様などがあります。
これらは社として祀られるほか、祠や石碑として祀られることもあります。
市域では中川や江戸川流域などの水辺にその多くが見られます。

旧権現堂河岸の水神社

旧権現堂河岸の水神社と舟唄

当時の様子がよくわかる彫刻あり

神社の祠には、米俵を蔵に運ぶ人の彫刻が彫られています。
また、かつての幸手には、多くの渡し場があり、舟頭は舟歌をうたっていました。舟は人を運ぶための渡し舟と、ウマブネと呼ばれる馬や荷車・人力車などを運ぶための舟の2種類があり、多くの人々が利用していました。
権現堂川の渡しは昭和9年まで使用されました。

権現堂川を帆走していた高瀬舟のレプリカ

舟頭が唄っていた「権現堂川舟唄」の代表的な歌詞

♪ハアーエー 舟はチャンコロでも 炭薪積まぬ
 積んだ荷物が 米と酒 キイーコ キイーコ
♪ハアーエー 権現堂出てからヨー 関宿までは
 わしも出て取る 艪とモヤ キイーコ キイーコ
♪ハアーエー 押せや押せ押せ 二挺艪で押せよ
 押せば 港が近くなる キイーコ キイーコ
♪ハアーエー 竿で三年だよ 艪舵で三月
 舵取舵ゃ 胸にある キイーコ キイーコ
♪ハアーエー 沖のカモメにョー 潮時聞けば
 わたしゃ立つ鳥 波に聞け キイーコ キイーコ
♪ハアーエー 押せや押せ押せ 古ヶ崎マメガ
 押せば 松戸が近くなる キイーコ キイーコ
♪ハアーエー 古河の 舟渡でョー
 今朝見た島田 男泣かせの 投げ島田 キイーコ キイーコ
♪ハアーエー 小山止まりじゃョー 私がタカエ
 間々田流して 古河止まり キイーコ キイーコ
♪ハアーエー 舟は千来るよョー 万来るなかに
 わしの待つ舟 ただひとつ キイーコ キイーコ
♪ハアーエー 艪で舵取る親方よりも 表廻りの主がよい キイーコ キイーコ

Mosaku Anchu様のYouTubeに貴重な録音が残っていました。

河岸の終焉

江戸時代後期から利根川の舟運で栄えた権現堂河岸、関宿向河岸・向下河岸は、明治期までは商品流通の盛行を背景に扱い量も多く、帆をかけた高瀬舟が行き来し、運送会社が蒸気機関を利用した外輪船「通運丸」を就航させていました。
この通運丸は、東京から関宿までをおよそ7時間かけて運行し、運賃は25銭でした。
この通運丸は鉄道の発達で、大正8年に撤退しました。
その後、鉄道・道路運送の拡充政策と洪水対策により、昭和2年(1927年)に権現堂川が締め切られ、権現堂河岸も幕を閉じました。

資料に残っている通運丸(幸手市史特別版P73)

歴史のロマンあふれるまち幸手

「関所」というと、箱根関所のような有名な観光地にある江戸時代の史跡、というイメージが一般的ですが、幸手にも関所があり、このように栄えていたとは驚きです。
関宿向下河岸の河岸問屋で干鰯の取引で巨万の富を得た「喜多村屋」など、敏腕商人も多く活躍したまちだったようで、少し調べただけでも、たくさんの文献に出会え当時の様子を垣間見ることができます。

日光道中「幸手宿」としての歴史や文化、舟運・河岸で栄えたまちとして、幸手には様々な角度で広がる歴史があります。

では、また。

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旧権現堂河岸の水神社:幸手市北3丁目6−34
西関宿 保食(うけもち)神社:幸手市西関宿297
関宿関所跡の碑:幸手市西関宿290−1
権現堂川を帆走する高瀬舟のレプリカ:舟渡橋(権現堂川)
参考文献:「幸手市史特別版」 幸手歴史物語 川と道 /幸手市教育委員会